っていい程感じられなかった。
しばらくは、その自由な空間に身を置くだけで兼茂は満足していた。そして、少しずつ暗闇になれると回りの様子がほのかに見え始めてきた。
この屋敷を支える一番大きな柱。ほとんど光が当たることのない暗闇の奥にあるその柱に一枚の紙が貼られてあった。
兼茂は、容赦なく顔面にへばり付いてくる蜘蛛の糸をかき分けて暗闇の中へ中へと進んで行った。乾いた土は砂埃を立てた。兼茂の鼻孔には湿った黴っぽい匂いが届いていた。
丁寧に剥がした紙きれは、手のひらを縦に二つ重ねたくらいの大きさであった。兼茂にはとうてい読むことのできない奇怪な文字がびっしりと書かれていた。始めて見る紙切れではあったが、その紙が何のために貼られてある紙なのか、どういった紙なのか兼茂は直ぐに理解することができた。
呪詛の紙。
何者かが菅原家、或いは菅原家の誰かを呪って貼ったものに違いない。こんな卑怯な方法でしか恨みをはらせない、その何者かに対して兼茂は無性に腹が立ってきた。あまりにも陰湿である。いつもの癖で目の細いキツネ顔の男が頭の中に浮かんできた。兼茂の嫌いなタイプの男の顔である。卑怯な奴はキツネ顔と兼茂は信じこんでいた。
ビリビリと紙切れを細かく引き千切り、さらに奥へ奥へと進んで行った。大きな屋敷の裏側に出るまでに同じような紙切れを三枚も見付けた。三枚とも紙は新しく比較的最近貼られたもののようであった。それを先程と同じように引き千切り、兼茂は太陽の光が眩しく照り付ける場所に出た。しばらくは目の前がチカチカとして何も見えなかった。
家族の誰かを助けた充実感で少しだけ気持ちが和んでいた。顔はもちろんではあるが着物には気をつけていたのにたくさんの蜘蛛の糸が張り付いていた。
無数に付いた蜘蛛の糸を取り払らおうかと思ったけれど、思いとどまった。光に照らされてキラキラと輝いている蜘蛛の糸を見るとそのままでもいいんじゃないかという気になったのだ。
それから、裏口まで誰にも見つからないように少しだけ背中を丸め身を低くして一気に走り抜けた。息遣いが聞こえないように息を止めて走った。『ざっざっ』っと兼茂の足音は案外大きく聞こえていた。
裏口を出ると慎重に辺りを見回す。以前やっと脱出に成功したと安心していたら貢久に見つかって賢子に報告されたことがあった。告げ口は卑怯者のすることだと貢久をなじったら貢久は泣き出してしまった。いつまでも女々しく泣き続ける貢久を見ていると、ますます腹が立ってきて兼茂は貢久を突き飛ばした。あっけないくらい簡単に貢久は後ろ向きに倒れてしまった。あまり後味のいいものではなかった。
幸い辺りに人影はなかった。牛車の轍の跡をひょいとまたいで兼茂は一目散に駆け出した。今は自分のたてる足音が耳に心地よく響いていた。馬が欲しいところだが、賢子に釘をさされているし、厩舎の係りの家来に適当に嘘を付くのも煩わしい。馬がなくてもつまらない講義を黙って受けているよりはずっとましだ。それにこのまま走ればいつかは大きな松の木の生えている町はずれの河原に出るだろう。兼茂はスピードを緩めることなく走り続けた。
頬を撫でる風は心地好く、衣服が風を巻き込み膨らむ様子がおかしかった。
しばらく走ると足の裏に痛みが走った。その時になり、ようやく自分が裸足であることに気付いた。廊下からこっそりと滑り降り、ここまで来たのだから履き物は無い。親指の爪の間からうっすらと血が滲んでいた。
結局、兼茂は町はずれの河原に行くことを諦め、市を見に行くことにした。朱雀大路をしばらく歩いて、取りあえずこの辻だろうと見当をつけて西に曲がった。何度か行ったことのある市であったが、どこで道を間違えたのかその日は市に辿り着くことはできなかった。或いは、その日は市は開かれてなかったのかもしれなかった。
目的を失った兼茂は、大きな屋敷の壁にもたれて往来を行き来する人を眺めていた。様々な人が行き来する様はおもしろく、いつまで見ても見飽きることはなかった。そんな阿呆のような兼茂を気味悪がってそそくさと小走りで通り過ぎる人もいたが、そんな様子も兼茂には愉快で仕方がなかった。
突然ぐーと腹が鳴った。兼茂は空腹であることを思い出した。おなかの空き具合から考えると今は大体午の刻である。
便利な腹である。
帰ったところでいつもと同じで、しる粥となますだけの朝食しか用意してないだろう。それに、帰れば廊下での学習をさぼって抜け出た事がバレてしまい、賢子の愚痴を耳が痛くなるまで聞かされるだけだろう。
兼茂は言い訳を考えることが面倒臭くなってしまい、そのまま先程と同じように壁にもたれて立っていた。腹は空くが往来を行く人々の姿をぼんやりと見ているのは本当に楽しかった。
雲一つない空に浮かんだ太陽が頭の上で強烈に輝いていた。暑くなり、汗ばんできたので上着を脱いだ。袴だけでいると心の底から解放された気分になってくる。
前を通る牛車の音と数人の足音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。それにしても随分立派できらびやかな牛車である。供の数も一人や二人ではなかった。地位の高い家柄の人が乗っているに違いなかった。
兼茂は牛車の中の人物が誰なのか見たくなってきた。一旦そう考えると兼茂の体は勝手に動きだし、ふらふらと引き寄せられるように牛車に近付いて行くのだった。
兼茂の気まぐれであったのだが、相手にしてみれば相当に不審な少年が牛車に近付いてきた。供の間に緊張が走ったのは当然といえば当然のことであった。
兼茂の前にその中の一人が両手を広げて立ちふさがり、兼茂の行く手を阻んだ。
何気なく行こうとする人間と絶対に行かせまいとする人間、片側だけの一方通行の怒りが生まれた。衝突がおこっても不思議ではない。
いきなり前を塞がれた兼茂は目の前にいる人物が無性にうっとうしくなり、払いのけてしまった。兼茂に押された男は、まさか目の前の少年にそれほど力があるとは思ってもいなかったのだろう、兼茂の力強い押しに大袈裟によろけ牛車にぶつかってしまった。
大騒ぎになってしまった。一斉に男達が兼茂の回りを取り囲んだ。そして、ようやくこの時点で兼茂は事態を理解したのだった。うかつに牛車に近付いたばかりに不審者として十人以上の男に兼茂は取り囲まれてしまったのである。
日頃から百姓の子らと一緒に遊んで鍛えられているといっても十二歳の少年である、十人もの人間に囲まれては手も足も出すことはできなかった。
目の前にいる人物の動作を伺っていると後ろから『どん』と体当たりをされた。後ろから押され前につんのめった兼茂は前の男からおでこの下をしたたかに殴られた。衝撃でひざまずいた兼茂に今度は両側から同時に組み付かれた。抵抗を
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